azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

One Learning Theoryは夢がある…けど

世の中には、One Learning Theoryという言葉があるらしい。日本語にすると、「たった一つの学習理論」となるらしい。らしい、と書いたのは、そういった言葉が確かに存在していると断定できるまでの確証が得られていない(と個人的に思っていて断定するのには多少なりとも抵抗がある)からだ。

さて、One Learning Theory(まどろっこしいので学習理論とでも呼ぶか)はどんな理論なのかというと、脳が学習を行う時の特徴についての理論だ。なぜそんな理論に目を付けたかというと、人工知能に関するとある本を読んだことがきっかけだった。これについては後述すると思う。

学習理論の話に戻ると、これは「脳が知覚・感情・思考の認識・制御を学習するとき、いかに知覚等の種類が異なるものであっても、それらの根本的な学習方法は変わらない」というお話のようだ(と私は解釈している)。ただし、この定義(のようなもの)は私の独自的な解釈が多分に含まれている・・・と思う。

さて、この学習理論が人工知能という文脈でどのように振る舞うのかというと、最近話題のディープラーニングに関わってくる。ディープラーニングは、元々はニューラルネットワークをディープ化した(ニューラルネットワークの要素である「隠れ層」を複数化した)ものだけれど、そもそもニューラルネットワークは人間の脳の模倣をしようという思想で生まれている(ニューラル:neuralとは神経という意味のようだ)。ディープラーニングニューラルネットワークを進化させることで、今日話題となっているような、卓越した、そして人間に近い学習成果を得ている。

さて、この2つの概念を合わせて考えたとき、夢のような物語が見えてくる。つまり、学習理論は脳の学習方法が1つしかない事を示唆し、またディープラーニングは脳の働きを模倣することで一定の成果を得ている。ということは、ディープラーニングに学習理論を適用し、「ディープラーニング人工知能)が知覚・感情・思考の認識・制御を学習するとき、いかに知覚等の種類が異なるものであっても、それらの根本的な学習方法は変わらない」と言えるのではないか。例えば画像認識分野で成功したディープラーニングは、その他の人間の知覚、あるいは思考をも模倣できるのではないか。

これだけであれば、ああ夢のある話ですね、ちゃんちゃん、で終わりなのだけれども、ここでひとつ納得できない事態が発生してしまった。この学習理論が、いったいどこまで認められているものなのか分からないのだ。検索してみても、小林雅一さんというKDDI総研の研究員の方が書いているpdfと、ウィキペディアとそのコピーサイトしか見つからない。で、ウィキペディアの記述は、これまた小林雅一さんの著作を基にして書いているものだから、少なくとも日本語文献では、小林さん以外にこの学習理論に言及したものが見つからない。これは困ってしまった。

考えてみれば、頷ける話なのだ。脳には無数の神経細胞が互いに接続しながら存在しているけれども、その結合の仕方などが、脳の役割によって大幅に違うだろうか。1つ1つの神経細胞の反応は違えど、基本的な構造は変わらないのではないか。ということは、基本的な神経の構造は均一であっても、入力信号の種類の違いが役割を決定付けているだけなのではないか。そう考えると、学習理論が正当なものに感じてくるし、たまに聞こえてくる「失われた視覚を電子機器で取り戻した」というような話も、新しい入力信号について神経細胞が正しい反応のしかたを覚えたというようにも見えてくる。

あるいはディープラーニングでも、画像認識について大きな成果が出たというニュースが多いけれども、同じディープラーニングというシステムを使って音声認識などの分野に進出しているという話も聞く。とすると、やはり学習理論のように同じシステムで複数の入力信号のかたちに対応できるのではないかと思えてくる。

ということで、個人的にはOne Learning Theoryがある程度確からしい仮説として存在し、ディープラーニングの多分野における活躍もそれを反映したものであると信じているのだけれど、それがどこまで共有されている認識なのか分からないよー。という話なのでした。