感傷のやつにさせられたので、吐き出しです。
存在に終止符を打たれると、そこで何もかもが止まってしまって、タイムスタンプが更新されないまま、そのまま奥深くに仕舞ってしまいそうになって、それを無理矢理に起こす儀式みたいなもの
— 梓常葉🥴 (@AzusaTokoha) December 6, 2020
単純に「忌」である、といえばそうなんだけれども、やっぱりこう記憶って「厄介な物」で、忘れてしまいたいものでもふとした折りに思い出させられることはあるし、忘れてはいけないものでもしばらくの時間に積もった記憶の奥底に仕舞われてしまって、なんだか遠い場所の話のように感じてしまうこともある。
何らかの事物に終止符が打たれるとき、それ自体はそのものの終わりとして劇的な現象であるけれども、それ以後はまた日常のサイクルが繰り返されるだけだし、劇的な動きそれ自体が記憶されるに比べて、それ以前の日常のサイクルがどのような物であったかという記憶は容易に薄れる、そんな気がする。たぶんそれは、単純な日常というものに、出来事として記憶される劇的な動きが無いし、(決してそれを咎めるわけではなく)記憶されるべきものとしての認識をしていなかったからで。
それを失った時に気付く、なんていう話はありふれたものではあるのだけれども、一度失ってしまうとその幻影を追いかけ続けるような気分になってしまうこともままあって。それでもその幻影は記憶の積層の底に忘れ去られてしまって、記憶のタイムスタンプが更新されることの無いままに、仕舞い込んでしまう。遠い場所に行ってしまう。それを何となく知っているからこそ、無理矢理起こして回らないといけない。また、Going Concern
対して、ものが失われると同時に、失ったと思っていたものが取り返せるときがあって。それ自体はものすごく嬉しいことなんだけれども、その嬉しさっていうのはたぶん喪失に抱いた感情の裏返し。つまり、喪失に何らかの感情を抱いて、そしてそれを仕舞っておかないようにしながら、待たないと得られないんだろうな。
そこに今も居る人は多いし、新しく来てくれる人はずっと多い、それでも過去に縋るのは性。
— 梓常葉🥴 (@AzusaTokoha) December 6, 2020
ぼくはまたsihoumayachangの絵を見ることができた事がものすごく嬉しいし、そういう光だけを浴びることができたら、悲しくも「やり易い」だろうに
記憶を掘り返すことで得る自傷。その裏返しなんて保障されていなくて、単純な自傷にしかならない事の方が多いはずなのに。
── 米青 ネ申 糸冬 了 ──