azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

オシログラス買った、かなり前に

以前、オシログラスというものを買ってみた。

砂時計的インテリアグッズで、ひっくり返すと計時が出来る。その方法というのが機械式時計の脱進機を使った仕掛けになっている。テンプとガンギ車による機械式時計の心臓部が、重力という駆動源によってリズムを刻みだす。腕時計ではゼンマイだが、重力だ。

産業革命は蒸気によるエネルギーを見つけたのではなく、そのエネルギーを御する方法を見つけたのだ、という言説がある。重力を一定のリズムに御するロマンがオシログラスにはある。

機械式時計はロマンだが、スマートウォッチはロマンが無いのだろうか?スマートウォッチの方が技術的には高度な事をしているはずだ。衛星軌道から時刻情報を受信する。衛星軌道に物体を投入する技術と、そこで正確に時を刻む技術、その時を地球上へ送り・受け取る技術が無いと成し得ない。

ただ、スマートウォッチには稼動機構が無い。よって見ていてもつまらなく、ロマンを搔き立てない。かくいう私も、74ICで論理回路を組んでも刺激が足りないので、LEDとトランジスタで組めばキラキラしてキレイじゃね?とか言って組んだりした。LEDの電圧降下を補償してなかったので、Half Adder 1段で力尽きた。

「これのどこが凄いのか分からない」という感覚になってしまうのは、高度な技術が日常化することで、当たり前になっていくからだ。コンセントに電気が届いている。インターネットに常に繋がる。当たり前だが、裏には様々な技術と努力が存在している。

たまにはオシログラスのように見える化されたロマンを、当たり前の事物に感じてみたい。

眼鏡が7万 いますぐ買え

Metaの新型スマートグラスは、AIを搭載していて、オシャレらしい。Googleも同様の新型スマートグラスを秋頃に発売するらしい。テクノロジー文脈だったスマートグラスを、アイウェアとして再定義してデイリーユースへと導入しようとしているって感じだろうか。

小さい画面デバイスの不遇を嘆いていた私としても、新たなる「小さい画面」の出現に期待せざるを得ない。今度こそ小さい画面が受け入れられる可能性を感じるのは、AIにより、今までのキワモノガジェットよりも実用的になり得るからだ。

GUI時代における画面サイズとは、OSやアプリケーションに対するI/Oとプロセスの自由度だった。CUIという文字情報だけのI/Oから脱却し、同時に複数のI/Oを画面上で走らせることが可能になった。広い画面は複数のアプリケーションの同時表示を確保し、複雑なプロセスを成り立たせていた。

スマートフォンで仕事が出来ない(しづらい)というのは、複数のアプリケーションを行き来する用途ができない、という意だったと考えられる。業務に求められる複雑なプロセスを遂行するには、それに耐えうる画面サイズを要していた。

しかし今やスマートフォン単体でも様々な事が出来るようになった。プロセッサーの性能向上と、それに伴うアプリケーションの処理向上により、複雑なプロセスを画面外つまりバックグラウンドで回せるようになった。人間がいちいちI/Oを指定したり、監視したりする必要がなくなっていった。

そして今、AIはエージェント型が台頭してきた。これは究極のバックグラウンドであり、自律的にI/Oを取り、プロセスを回す存在と言える。人間が最低限の、本当に最低限の指示を出せば、プロセスは回り始める。人間がその中間でI/Oを指定する必要は無い。

だからこそ、小さい画面を超え、画面が無くともデバイスが成り立つ。


さて、これらのスマートグラスにはカメラも搭載される。我々の視界と同じものを捉えるスマートグラスのカメラは、どのような写真を作り出すのか。いわゆる目線カメラの映像を見るに、スマートグラスの写真は直接目で見る風景とは異なった印象を与えそうに思える。

我々は無自覚に、目に入る風景の中から特に着目すべき点を抜き出して認識している。植物園で花を見るとき、同時に視界に入っているはずの柵は脳が勝手に消している。そうして花を綺麗だと鑑賞するのだ。

しかし、目線カメラは素直に視野を記録する。視界に入っていなかったはずの柵が、写真を通すと浮かび上がってくる。忠実な写真は、「これじゃない」写真である。

だからこそ、AIが写真を補正する。必要なものを強調し、邪魔なものを消す。視界と同時に「装着している人物がどこに着目しているか」が重要であり、無自覚な視線の行き先を浮かび上がらせることで、ついに「美しい写真」を撮ることができる。

逆説的に、写真を撮るという営みは、我々が風景に何を見出しているか、という無意識を自覚して、画角という形で表現するものだ。見ているものがなぜ美しいのか、記録に値するのか、どういった点で特筆されるか、を形式化するのが、撮影という行為の本質なのかもしれない。

道路はクソ便利である、どこにでもあるからだ

電気自動車の普及が進まない理由として、充電スタンドが足りない、という説明がよく聞かれる。ガソリンスタンドのように至る所で燃料を補給できる体制が無ければ、電欠という不安が付きまとう。それゆえ長距離移動には、それなりの密度で燃料補給が可能なガソリン車に一定の分がある。

電費や充電頻度も課題視され、中国をはじめとするEVメーカーは高密度バッテリー開発などにしのぎを削っている。その点ガソリンは液体のまま大量のエネルギーを持ち運べ、液体であるから容易で補充できる、という圧倒的な優位性を備えているのは各所で指摘されている。

一方水素は電気以上に厄介で、ガソリンのようにスタンドがあるわけでは無いし、電気のように家庭で充填できるわけでもない。車体価格も高い。

やはり新技術を広めるのは難しいのか、というとそうではなく、生成AIは ChatGPT 3.5 がリリースされた後、とてつもないスピードで広がった。

クソ便利だからだ。

ガソリン車が街中を走る以前に、ガソリンスタンドが街中にあったわけでは無い。せいぜい灯油の販売所くらいだろう。それでも自動車はだんだん広まっていった。

クソ便利だからだ。

ニワトリが先か卵が先か、みたいな話で、インフラが求められるほど広まる便利な物であれば、おのずと需要に応じたインフラが整備されていく、ということに過ぎない。

EVは便利だが、ガソリン車に比べてクソ便利というわけではない。モーターの加速性能は良いかもしれないが、ハイブリッド車で十分というユーザーは多いだろう。

そうなると「地球に優しい」とか「ランニングコストが下がる」という訴求で売っていくしかないわけだが、だからといって高いイニシャルコストを払ってまで、ガソリン車からEVに乗り換えたいというユーザーがどれほど居るだろうか。

結局のところ肉体に縛られた人類は、体験という価値でしか訴求されない。ただ単に「今と同じ機能を、環境に優しく実現できる」では買う理由となりにくい。

だがテスラを買う人はいる。

それはEVを買っているのではなく、テスラを買っている。

テスラに乗っているという体験、テスラのオーナーであるというラベルであれば、高い金を払えるわけだ。機能的価値ではなく、情緒的価値がひとまずはEVを買う主な動機になるのだろう。

最後には世間の目がマイカーブームを引き起こしたように、EVシフトの大きな波を引き起こすのかもしれない。

規制料金プラン「従量計算B」

電気というものが無くてはならないリソースになり、常に一定の電力を世間に供給しなければならなくなった。すると、原子力発電に代表されるような、一定のコストで一定の出力を確保できるベースロード電源という存在が生まれた。

ベースロード電源は、常に一定の電力を供給するが、電気は需要と供給がバランスしなければならないため、この電力を何かで消費しなければならない。揚水発電所でタービンを回して水に位置エネルギーを付加するとかそういう需要である。

さらに深夜電力などの「夜間に安くなる料金プラン」を設定し、余剰な電力を「安く売ってでも使ってもらう」インセンティブを設計する。

さて、AIの計算リソースというのも基本的にはリアルタイム消費物であって、誰かがプロンプトを投げた瞬間にGPUが発熱を始める。一方で、GPU(ひいてはDC)を保有する企業としては、常に何かしらの需要に応じてGPUをぶん回せれば、その分の売り上げが立てられる。

となると、「深夜AI」などの「夜間に安くなる料金プラン」を設定し、余剰なGPUリソースを「安く売ってでも使ってもらう」インセンティブを設計するようになるのではないか。

そして地理的制約のある電力とは違い、計算リソースは全世界的にシェアできる。日本の昼間は欧米のオフタイムにあたるから、向こうで暇を持て余しているGPUをこちらで使えると考えると、日本が安くAIを使い倒せる時代が来るかもしれない。

ぼくらはOpenAIの「Midnight AI」を契約し、「Midnight Codex」でプログラミングするんだ。

現実にもAWSとかのスポットインスタンスがそれに近い思想で、需要の少ない計算リソースをオークション的に安く提供している。あれが一般的なAIサービスの課金に拡張されれば、日本の昼間に使うAIはより安くなる。

オフショア開発や時差を利用した連続稼働など、グローバルの連携を活かした「欧米の夜間」という立ち位置を、より有利にする要素としてAIの低価格化は重要だ。今すぐに日本国政府はAI開発企業に時差料金を強要しなければならない。

ただしここに、エージェント型AIというやつが水を差してくる。

初期の生成AIの使い方というのは基本的に即時応答で、人間が問いを投げてAIが答えるという繰り返しを前提としたものだった。しかしエージェント型のAIというのは、人間のタスクを自律的にこなすので、必ずしも即時に応答される必要は無い。

バックオフィス業務の代替なんかがその典型で、たとえば伝票の仕分けなど、昼間にキューを積んでおいて夜間に捌いておいてもらえば必要十分だったりする。こういう「バッチ的に処理できれば良い」という需要はエージェントAIにぴったりだ。

そうなると、欧米のAIエージェントが「リソース単価の安い時間帯に仕事をシフトする」ようになる。欧米の夜間が安いなら夜間に使う。世界中がそれをやり始めると、当然日本の昼間はリソース争奪戦になり、計算リソースの単価が上がり、「昼なのにGPUが安い」という日本の優位が崩れる。

つまり、地理的な非制約と時間的な非対称性を利用したコスト最適化戦略は、時間的な非即時性をもって無効化される。

結局は電力会社がスマートグリッドによって需要を動的に制御しようとしているように、計算リソース側がエージェントの稼働タイミングを誘導するような動的課金を設計するか、あるいはそれ自体の制御もAIに任せるか、という話になるんだろう。

リソースを制御するAIは、働きたいAIが「働ける」時間に対して値段を提示する。労働を制御するAIは、働きたいAIがより安く働ける時間帯を探し求める。

そしてもうひとつ、価格とは全く別の軸で、法的規制により地理的分散が起きる可能性がある。

各国で独自のAI規制 ──たとえば、個人データを扱うAI処理は特定の地域のサーバーで行わなければならない、あるいは特定の用途のAIモデルは規制の厳しい地域では使えない、といった制約が生まれると、そのAIが走る計算リソースの所在地がどこか、という制約事項が需要に加わってくる。

逆説的に言えば、規制の地理的非対称性が計算リソースの地理的分散を半ば強制するとも言える。規制の緩い地域に処理をシフトしようとし、そのような地域ではデータセンターが増え、電力が物凄い勢いで食いつくされていく。または特定の地域内で安く計算できる場所が、物凄い勢いで必要になっていく。

そういった地理的要請は、どこか特定の地域、おそらく産業の創出の為に緩い規制を採用する地域に、計算リソースの提供を経済的に強要する取引を招くだろう。

社会はなんだってそうだ。都市に必要なリソースは、そのリソースを産むために必要な地域に、経済的に強要するように(ありていに言えば札束で殴って)提供させる。

食料が要るなら田園地帯から買ってくる。
水が要るなら村を退かしてダムを作る。
電気が要るなら海岸に原子力発電所を作る。
住居が要るなら地理的に近い田舎を拓いてニュータウンを作る。
安全が要るなら敵の近くに軍事基地を作る。
そして計算リソースが要るから、どこかにデータセンターを作るのだ。

【この本文は、日本の昼間時間帯に、Claudeの協力により作成されました】

個々の死を取り巻く構造、を保つ

複数の人間が共同体を形作るとき、その共同体は個々人とは異なる意思を持ちうる。その最たる形が国家による戦争であって、個々人の集合であったはずの国家が、その国家の意志により戦争をはじめ、戦争により個々人が傷付けられる。戦争という手段が国家の目的には適うとしても、個人の目的に適うとは限らない。その形はどのような共同体でも起こりうる。

個人からこの現象を表現するならば、個人がどこかの共同体に属するとき、個人の営みの一部(もしくは終着点)である死は、しばしば共同体に起因する形で訪れる。それは国家の戦争に巻き込まれた戦死かもしれないし、会社の事業活動に巻き込まれた労働災害という形が、今日の日本においてはより身近であろう。すべて、共同体に殉ずるという形式をとる。

この殉ずるという最期は、その個人が完全に受容していた例は多くないように思うが、一方で多かれ少なかれの可能性を理解していた例も多いのではないか。共同体に殉ずるという結末を、全く蓋然性が無く受け入れ難いものだ、とは考えていなかったかもしれない。

つまり、共同体の生みだした一種の行動規範、あるいはやや無意識的なコードとでも表現すべき社会的な了解として、共同体の目的の為に個人の生命が一程度危険にさらされる、という場面を認めていることがあるだろう。

それらは何も危険を伴う職業に限った話ではなく、交通事故による死者数の多さが交通戦争と評されていた時代では、今よりも高い水準の危険が街中に存在し、その共同体に住まう全ての個々人が危険性を向けられていた。あるいは今現在であっても我々が一般に道路を歩くとき、その道路には将来の水準からは余りにも大きな危険が残されているかもしれない。

今では交通事故による死者も減少しているが、そこには例えば安全支援機能の開発や、取締りの強化といった共同体による施策がある一方で、我々がそれを当然と考えているように、共同体で持つ了解・コードも時代によって書き換えられていく。労災事故も現代においては過去と比べ物にならない程、減少しているが、それを取り立てて称賛するというよりかは「当たり前」として消費することが多い。

そして共同体でありながら、そのようなコードの書き換えといった論理が働きにくいと思うのが宗教だ。教義や教典といった、明文化されつつも明確な管理主体が無いために更新されづらいコードが存在し、一方でその活動に熱心に貢献しようとする個人も生まれる。

宗教もまた、個人の死と切り離すことは出来ず、一般に個人の死を弔うコードとして宗教が組み込まれているという意味の他にも、殉教という言葉があるように宗教という共同体もまた、個人の死を誘う可能性を孕んでいる。

その結果、ある種「戦争」の時代のような古いコードに含まれる、共同体を起因とする死、という概念が有効なままに現代を迎えている共同体の一類型なのではないだろうか。

というような構造的保守性の可能性を、今般、辺野古で転覆した抗議船の船長が持っていた「牧師」という肩書に邪推した。

また今年も桜が咲いた

www.youtube.com

00:32 Booster Ignition, and Lift-off!
01:44 Approaching Max-Q.

なんかトイレ壊れたりしてるらしいけど、がんばってほしい


春になったわけだが、いつもの春がどうだったか思い出せない。

ここ最近は以下のような事を独り言でほざいていた:

  • 全世界←この表現はあまりに地球中心主義的である。世界は地球ひいては全宇宙に広がっている。人類はその事実を真摯に受け止め、表現を改めるべきだ
  • Ethernetが富士Xeroxの登録商標という事実を知ってひっくり返ってた
  • エンゲル・ダジャレ、プライス・オブ・ライス
  • ウォークスルーよりランスルーのほうが速度が向上するためビジネスにふさわしい

救ってくれ


なんか原油が日本に来ないらしい。早くトイレットペーパーを買い占めなければ、と言っている間に6週間が過ぎた。

地震に対する備えをしなければならない、と日本のどこかに大きめの地震が起きるたびに思う。でも、地震が起こってすぐに備え具を買うと、ミーハーっぽさがあるので、ほとぼりが冷めたら買おうといつも思う。そして6週間が経ち、そんなことは全てを忘れている。

ほとぼりが冷めないうちに株を買おうと勇んで買ったら、優待権利落ちでマイナス圏に落ちたまま浮かんでこない。ずいぶんと高値の優待を掴まされたもんだ


インターリンクという逸般向けISPが、ホームページをAI-native対応したらしい。はいはいエイプリルフールね、と思っていたら本気らしいのでひっくり返った。

mdは素晴らしいと感嘆して回っていたが、世の中にmdが広まりつつある理由は、Slackのようなテキストベースチャットの装飾が広まったから、ではなく、AIがMarkdownを読み書きしやすいから、であるようだ。Markdownが広まっていることが素晴らしいことである所以は前々回に述べた

HTMLを手で書くのに疲れ(今日日そんなやつはおらん)、mdで書いたのをレンダリングしたいでもサーバーサイドで処理したりパイプラインでデプロイするのは好かん、などと言っていた身としても、mdがブラウザネイティブ対応する未来の可能性には賭けたい。

思えば何でこんなタグとか面倒くさい記法が標準になっとるねん。mdで駆逐しよう

これにより副次的効果として、過剰な装飾やインタラクティブ性といった、情報のやり取りを阻害する要素を減らすことが出来る。Flashでホームページ作っていたころに戻ってはならん。

酒飲み過ぎた

バカほど酒を飲み、AIにこのブログの過去ログを読ませたら、アスペルガーですなと診断されたわけだが、認知特性とかを分析してくれるからMBTI代わりに楽しめるコンテンツでおすすめです。

そのせいであるとは言えないが、今日は特に夕方以降の脳みそが大変疲れていた。

何というか、おかしな伝達物質が身体中を駆け巡るような感覚で、上半身に熱を持ったような痒みが走り、関節が多少痛む。左目尻が腫れぼったい。首筋に違和感が残る。

時間か距離か、感覚が引き延ばされる。空間が伸び縮みする。視界の端でずっと何かが動いいているように思える。水滴が翼のように広がり、意識がそちらを向かざるを得ない。

手元でデバイスを弄るにも、いつも通りに脳が操作系に適応しない。ありもしないキーを叩くか、キーボードのスプリングが重い。

セロトニンが過剰に分泌されているのかもしれない。病的と言えるこれらの状態に急遽襲われる。

催眠術があるように、自律訓練法があるように、脳に言語を通して意味をインプットすることで、脳内の物質バランスを崩す事さえできるのだと思いつつ、因果関係は一切証明されていない。