azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

葬儀出席2023

親戚が亡くなったので、葬儀行ってきました。

葬儀場は儀式の場になるから、仏式なり何なりの、宗教的儀式に対して最適化されているんだけど、火葬場はそういうのが無くて面白かった。

葬儀社に「人が死んだよ」って言うと、とりあえず病院とかから運び出して、葬儀の場所とか用具とか諸々準備してくれるわけだけど、火葬は自治体の公共火葬場を使った。たぶん葬儀社と火葬場運営者は分離しているケースが多いのではないか。

そうなると、葬儀社に対する支払いは「宗教的プロトコルに沿った葬儀」に対するものであって、場所・人・物・移動手段といった手配とプロセスの結果、宗教的プロトコルに沿った葬儀を受け取る。そこには古来から定められた葬儀儀式の方式があって、そこからはみ出ない範囲に対してお金を払うという事で、分かり易い。

他方、火葬場に対する支払い(今回は喪主家で無かったので、直接支払ったのか葬儀社を通したのか知らないけど)は宗教的というより、埋葬の許認可に従って遺体を埋葬可能な状態にする、という何となく事務的な支払いに見えるんだよな。公共火葬場だからなのかもしれないけど、発生した遺体をコンバートする手数料みたいなイメージ。もし民間火葬場も選択肢としてあるならば、本質的な価値としての火葬とその結果は変わらない。

そういう規範があるかどうかによって、葬儀社のスタッフは「こういう体裁であれば後はそれなり」みたいな動き方に見えたのに対し、火葬場は「いかに丁寧に見える所作を極めるか」という意識に見えた。火葬が宗教から独立した、どちらかというと行政的要請であるが為、宗教によって「故人への礼儀とはこうあるべき」という枠が決められていないので、自ら丁寧さの極致みたいな礼儀を定義して、それを日々体現する。

結果としてある種軍隊的というか、90度の回転と直進を基本所作として、あらゆる動作を組み立ててあることで、丁寧を表現して、故人に対する礼儀を表している。それを全ての場面で徹底した結果、遺骨と埋葬許可書の取り扱いが同じになっていて面白かった。「こちら、第二頸椎、喉仏でございます」「こちら、埋葬許可書でございます」じゃねんじゃ。