azusatokohaの日記

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「原作未履修二次創作」は「二次創作」の文脈ではなく、むしろ二次創作として作られてはいない

バズツイートに物申すオタクはダメだよ。最近そればっかだ。今日のそれです。

このツイート見た時、これってめちゃくちゃキャラクター的というか、ポストモダニズム的というか、まさに「今の若いオタク」っぽい、現代的な消費行動だな~って思ったんだよね。それが良いのか悪いのかは別として(私は他人の消費行動にとやかく言えるほどえらい人間ではないので…)

キャラクター的(キャラクター論的)なこと、ということについては、このブログで最初に書いた記事(これですね、かなり「人間」におけるキャラクター論についての文章)でもチラっと触れたんだけども、もちろん創作上のキャラクターについても、「キャラクター(性格・特徴)」の寄せ集めによって、ひとつの人格が創作される、という過程はあてはまると思うんだよな。

オタクなら身に覚えがあるんじゃないかと思うけれども、オタクは、広く「萌え要素」を共有した認識として持っている。それは、髪や目、あるいは胸や体形体格の形やら色であったり、性格、人付き合いの在り方、感情の振れ方であったり、全く「人間」の形状を逸れた創作的個性も含め、おおよそありとあらゆる「人格」の構成要素を内包している。

萌え要素」の視覚化は、今や単純明快であって、イラスト投稿サイト(ピクシブとかだね)ではイラスト毎に「萌え要素」たりえる多くの単語がタギングされている。たとえば「猫耳」「オッドアイ」「短髪」「内向的」など*1がそれで、名も知らぬキャラクターであっても、その萌え要素だけで一覧することができるようになっている。

キャラクター(創作上の存在)とキャラクター(性格・特徴といった萌え要素)が紛らわしいので、以下「人格」と「(萌え)要素」と明確に分けます。頭がこんがらがってくるため。

この大量に流通する萌え要素っていうのは、ポストモダニズムでいう「データベース消費」におけるデータベースそのもの、というのは飽きるほど指摘されているけれども、オタクは様々な経路によって共有のものとしている萌え要素のデータベースから、好みの要素を取捨選択することで、好みの人格を創作上に見出しているわけだよな。その消費行動は、人格そのものと関わり合い性格を相互に理解するというプロセスが存在する現実的な人間関係とは真逆であって、人格の持つ要素が(おおよそにおいて)真っ先に提示されていることで、好みである人格を探すことができるし、そこを入り口として作品に触れる、というプロセスも間違いなく存在している。

さて、ここからが本題なのですが、一番上のツイートにあった「作品のキャラクター(人格)が、その作品のストーリーを知らない者によって、再解釈され『二次』創作」される、という状況について書きたかったんです。なのでここからはその話です。↓ここからタイトル回収↓

原作未履修二次創作ということだけれども、それは「二次創作」の文脈として作られた作品ではない、ということは明確に線引きされるべきだと思う。二次創作というのは、語の定義上「原作となる作品の延長線上、あるいは可能性として、その作品の愛好家によって二次的に創作されるもの」であるはずだから。であれば、問題となっている作品は明確に二次創作ではない。おそらく、創作者もそれが「定義上の二次創作」と同列に扱われることを望んでいないんじゃないか?とも思う。

では、なぜそれらが「二次創作」という体で扱われてしまったのか。それは、「特定の要素を集めた創作の代名詞」として最適であったから、だと思うんだよね。

要素の集合としての、特定の人格を指し示すには、名前があったほうが便利である。「猫耳オッドアイつり目短髪くせっ毛人見知り内向的鈴付きチョーカー長袖青ボーダーワンピースの子」でも伝わるかもしれないが*2、やはり名前が付いていた方が親しみが持てるだろうし、伝えあいやすい。

また、名前を付けたとしても、それが広く知られることが無い限り、それを代名詞として要素の集合を広く語ることはできない。イラストレーターさんだと、自分の好きな要素を詰め込んだいわゆる「うちの子」を創作している方も多い。けれども、私が豊橋に居るひとりの青年の名前はおろか存在すら知らないことと同じように、「うちの子」は創作者の周囲では知られるかもしれないものの、広く一般的な代名詞として用いられるには、知名度という壁が立ちはだかることになる。

そのような状況下で、商業上少なからず知名度を備えていければいけない商業作品は、特定の要素を詰め合わせた人格の代名詞として使いやすい存在になる。「あの作品のあの子」と言えば、それだけで多くの萌え要素を雄弁に語ってくれるのだ。それこそ、「伏せ猫耳紺赤オッドアイつり目短髪くせっ毛人見知り内向的鈴付き細身チョーカー長袖青ボーダーワンピースの子」*3という要素の集合を、ひと言ふた言で済ませてしまうことができるのだから便利である。

ただし、そういった使い方の場合、名前に付随する要素が重要であって、その背後に存在する作品上のストーリーだとか、人間関係などと言った存在は、むしろ邪魔な物になる。要素から連想される創作の制限をするものであって、足枷にしかならない。要素の集合としての人格のみを基に創作するのであれば、その発信側にとっても、消費側にとっても、作品それ自体への理解というものは不要である。創作は、二次創作として作られてはいないわけだ。

このすれ違いは非常に深刻であって、語の定義に沿ったかたちの「二次創作」を見たい人と、人格の要素だけを基につくられた「二次創作」を見たい人は、全く異なる需要を持っているにもかかわらず、同じひとつの作品の「二次創作」というくくりになってしまうことになる。これでは分かり合えないのも当然ですね…

これを解決しようとするのは大変に困難である。萌え要素ポストモダニズムの一例であるけれども、消費行動は同時に脱属人を進めていると思っていて、「このイラストレーターの作品が好き」という消費よりも、「誰それのあの作品が好き」という、より細かな視点での「いいね」が増えている、気がする。であれば、特定のイラストレーターが「うちの子」として発表したものが、要素集合としての人格の代名詞化することは難しく、ならばその種の創作は二次創作という体で行った方が、同好の消費者にも届きやすい。

加えて言うならば、非常に多くのオタクに「バズった」ような作品の場合、人格の名前に作品のストーリーが非常に強く結びついているため、それを無視した二次創作はやり辛い。そうなると、オタクの「必修科目」と呼ばれるような、超有名な作品よりも、少しマイナーな作品のほうが、この種の「人格だけ二次創作」の標的になりやすいのかもしれないな。

不幸な話だねぇ。

*1:これはあくまでも例示であって、実在の人物の趣向とは一切関係がありません

*2:再三になるが、これはあくまでも例示であって、実在の人物の趣向とは一切関係がありません

*3:実在の(ry