azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

バ美肉、ということば

スマホでポチポチ書いているんで、文体がTwitter調だったり、可読性が吹っ飛んでるかもしれない。ごめんなさい。未推敲ver.ということで。



先日NHKの「ねほりんぱほりん」で「バ美肉」特集が放送されてました。らしいです。私は見てないんですけどね。見てもいないテレビ番組にお気持ち申し上げるオタク。

こういうテレビ番組に限らず、最近は「バ美肉」って言葉の意味も広がっていますよね。いろんなバ美肉のかたちがあるけど どれもすてきで うつくしい 今日はそんなお気持ちの表明です

言葉が人口に膾炙していく過程で、言葉の解釈が変わったりする(ここ激ウマギャグポイント)(膾炙と解釈)ことって珍しくもないことで、有名どころで言うならば「壁ドン」なんかは、全く違う2つの意味が、ひとつの言葉に共存している。

これって、結局のところ人間が言葉を使う以上仕方のない現象だと思うんですよね。個人ごとの人生経験とか感性、思想などなど、全人類で統一できない部分があるわけで、なのに言葉の解釈を全人類で統一しろ、なんて無理なわけで。言葉は恣意的。

バ美肉界隈に浸かって久しい人ならば、より原義的な「バ美肉」という語の定義を持っているだろうし、最近知った人ならば違う定義を持っているかもしれない。かもしれない、なんて書いたけど、確実に持っている。

そこに正しさも誤りも無いんですよね。ある人の解釈、他の人の解釈、多数決的に国語辞典的な定義を決めることができたとしても、それは少数派の解釈を否定するものであってはならないと思うのです。そういうのって、拡大解釈していけば、「感性」の否定なのではないか?

言葉を知る、何かを感じる、それを表現する、そのサイクルを絶やしてはならない。まぁ、私が「検閲」「抑圧」アレルギーだからなのかもしれないけど。

話をバ美肉に戻してまいります。バ美肉って、最初は「バーチャル美少女セルフ受肉おじさん」みたいな、ごくごく狭い定義の語だったと思うんだけど、でもそれで十分だったんですよね。自分で理想の女の子の絵を描いて、声を当てて、ひとつのコンテンツにする。

でも、幸か不幸か(私は幸だと思うよ)、バ美肉、あるいはそれを取り巻くコミュニティは急速に拡大した。そうすると、絵が描けない人であってもこのビッグウェーブに参加しようと、セルフじゃない肉体を作ってもらうようになった。でもそれもバ美肉の文脈じゃん?って事で、バ美肉の意味は広がっていったし、参加者も増えていった。

じゃあ今「バ美肉」の広い意味って何なんだろう?と考えると、たぶん「バーチャル美少女肉体」になるんですよね。以前少し話題になった"Virtual being"を借りるなら、"Virtual 'Girl' being"くらいの意味合い。たぶん件の番組はこっちの「バ美肉」を紹介したかったんだろうな。

そうやって意味合いの広がっていった概念を、ひとつの言葉で表すわけだから、そりゃこじれるよな。

言うまでもなく、このどちらかの概念が優れているとかいう話じゃないんだけど、どっちの「バ美肉」も、めちゃくちゃ素敵なことだと思うんですよね。

私が見てきた「バーチャル美少女セルフ受肉おじさん」は、自分の技術でどこまでVTuberっぽい事ができるか、みたいな力試しであったり、文字通り自分の新しい肉体として、一心同体でやっているような熱量を感じた界隈だった(美化された記憶かもね)し、そういうエネルギーが秘められた空気感が好きっていう人もいたんじゃないかと思う。

じゃあ「バーチャル美少女肉体」は、というと、これこそ現実の肉体という呪縛からの開放、っていう感じがするんだよな。

キャラクター論のオタクなのでまたキャラクター論の話をするけれども、「人」という漢字はどのように成り立っていますか?

そうですね、自分の突き進みたい道を、他所から来た圧力によって、強引に軌道修正されている形をしていますね。

…とまあこれは冗談としても、人というのは社会(大なり小なりのコミュニティ)の中で、自分の果たすべき役割が、強度の差こそあれ規定されて、それを実現するように圧力がかかっているんだよな。これが他人から着せられた「キャラクター」であり、「いじられキャラだから多少のイジりでは怒らないよね」、みたいな役割の強制が行われている。

でも、「バーチャル美少女肉体」あるいはVRC的なコミュニティ構造では一旦こういう役割強制をリセットして、それこそ見た目・肉体から、自分の成りたい方向へと進むことが出来る。

そう、バーチャル肉体に「入」る、という時の「入」は、他人からの圧力を押し退けて、自分の進む道をしっかりと踏み締めている形をしていますね。

どんな形であれ、バ美肉っていう「あり方」って、素敵なことが沢山あると思います。だからこその、「バ美肉」という言葉への想いもあるのだろうけれども、いろんな「バ美肉」のかたちを、ゆるやかーに見守っていける世界であってほしいなー、と思うのでした。

結論:現実はクソ