azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

分からないこと、分からないがち

1人である時は、他人の感情が介在しない。まあ、当たり前ではあるんだけれども、結局のところ、自分で分かるのは、「今現在の自分」の状態であって、他人はおろか、未来の自分がどうであるか、過去の自分はどうであったか、なんて分かるわけがないんだよな。1人である時は、その状況について思案する材料が揃いきっている、非常に気持ちの良い状態。

ならば、コミュニケーションのないまま、単独的な行動で済ましてしまいたいし、状況の確定しないままに、軽率に将来の自分に約束をしたくない。完全に社会不適合者のそれである

基本的に、状況が分からない、という事は、不安であったり、苛立ちになる。電車内の携帯電話通話がマナー違反とされるのは、話し声がうるさいから、よりも、会話の状況が分からない(背景が分からない、相手の発言が分からない)ままに一方的に聞かされる状態が苛立ちに繋がるから、だと思う。聞こえてくるなら思索がそちらに向くが、材料が揃わない。気持ち悪い状況に置かれる。

であれば、身の回りの変数の値は既知、あるいは容易に推測可能でありたい。がために、人格のパターン化、あるいはキャラクター化が起きる、と思うんだよな。この性別であり、この年齢であり、この立場であれば、感情のパターンが自動的に決まり、周囲はそれを基に動き、あるいはそのパターン化された言動が求められる。確かに便利だ。けれども、それは個性が求められず、むしろ嫌悪される世界。それってめちゃくちゃ窮屈だ。

人格のパターン化それ自体が悪いとは思わない。けれども、見た目からそれを推測し、固定してしまうのは、窮屈な状況につながる。せめて、ひと言ふた言交わし、その感触からパターンを見出したい。

めちゃくちゃコストはかかるんですけどね〜〜〜〜〜………