azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

コミケおつかれさまでした~wアフターぜひお誘いください~(独り言)

コミケがおしまいになりました。おつかれさまだ。ぼくは「梓常葉の電子書房」というサークルをでっちあげて、本ないし紙をばらまいていました。頒布数はまず納得いく数だったので良かったです。

で、実は推しのSSペーパーも配りたくて頭だけちょっと書いていたんですよね。今回はそれを出さなかった思考と懺悔のエントリです。

まずはどんなのを書いてたのか、導入部を載せます。こう自分で書いたものを見せるのってめちゃくちゃ恥ずかしくなるんだよな。制作物に自信を持てないため。

たとえば、どこに居ても遠くの家族と繋がるテレビ電話。たとえば、生活の様々な場面で私たちを補助してくれる人工アシスタント。「2020年」という、かつて夢のように語られた科学技術の最先端だったはずの新しい年は、いくつかの新しい技術が生まれ、今や過去になろうとしている「2019年」と大差のない幕開けになろうとしていた。

べつに、2020年という未来に、とてつもない期待を抱いていたわけではない。とはいえ、人生に10回とあるか分からない、「新しい10年」の幕開けに、いささか感傷的になっているのも事実だった。10年前、自分はどこで何をしていたっけ。10年後、自分はどこで何をしているんだろう。そんな漠然とした思考が、いつの間にやら口から零れていたらしい。

こんな感じです。2019年と2020年という「年代」の狭間って実はレアだよね~って思ったら、こういうアウトプットになりました。分かりやすくエモに走るオタク。

この後は隣に推しが居て初日の出見物と洒落込む、という内容にしたかったのですが、どうにも書きたい感じにできなかったので、没となりました。

何が書きたかったのか

今回書きたかったのは、単に対比構造を大小散りばめたかったんですよね。導入部で言えば、各段落は「過去」と「未来」の対比構造であり、その段落間に「論理」と「感情」という対比構造を置いてみた、という感じです。

そもそもなんで対比をやりたかったのか、というと、「仮想」と「現実」というバーチャルYouTuber特有の構造があって、そういう二世界を知らぬ間に行ったり来たりしているような文だったら面白いよね、っていう所からはじめました。かといって、ワープとかワールドとか安易にバーチャル感を盛るより、現実世界にバーチャル技術が溶け込んでいる感じにしたくて、無理なので挫折しました。ホニャン

で、そういう対比構造(前の「人間は賢くなれないってやつ」でもやってた二項対立的な構造)を考えていく中で、「仮想」と「現実」は決して対立する軸ではないよな~と思ってしまった。というのがこのエントリの本題です。導入が長い。

「論理」と「感情」は両立するよね

上のSSについて、各段落の間に「論理」と「感情」を対立構造として持ち込んだ、という話をしたけれども、論理と感情も両立する概念のはず。感情に対する意味付けがなされるならば、それは感情に付随する形で、そこに至る論理も存在しているわけだから。この2つは両立するし、真逆の存在ではない。

たぶん、この2つはレイヤー的な構造なんですよね。より本能的、生物的な部分、社会性の低いレイヤーとして「感情」が存在していて、「論理」は思考をはらんだ社会性の高いレイヤーとして「感情」の上に載る。感情が生まれる理由を論理で説明する、言語化する、というのは、感情に社会性を持たせる、より高次のレイヤーに当たる行動になるわけですね。あるいは、論理に根差した感情もあるだろうし、であれば高次レイヤーから低いレイヤーに影響を与えることになる。

とは言え、こういうレイヤー構造に落とし込んでしまうってのも間違いかもしれないですね。ぼくは天才ではないので、既存・既知の構造に物事を当てはめていくしかできないのですが、より頭の良い人であれば、より新規に正確な構造表現を思い付くのかもしれない。

あと、レイヤーが高い・低いというのは、優劣の事ではなくて、構造上の表現として捉えるべきなのだけれども、ぼくのような人間はどうしても「論理」は「感情」に優越した価値がある、と考えてしまうんですよね。上でも言った通り、論理的思考は社会的な要請から生まれた物だろうし、そういう「社会的なもの」こそが善であり、「生物的なもの」は悪であると捉える。そういう風潮ってのはあると思うんですよね。そういう差別視を論理的説明(この論理的説明はこじ付けと明確に区別されねばならない)なしに持ってしまうのは、感情的な偏見だな~と思うと嫌になるねぇ。

生物的なものは不純で隠匿すべきである。感情の吐露は控えるべきである。食事は調理されたものを器具によって摂るべきである。自己の利益のみを求めた行動は慎むべきである。性的なものは表現しないべきである。あらゆる欲望は忌むべきものである。などなど。それを否定しようとは思わないし、歴史的にある宗教的な修行なんかを見ても、こういうのは普遍的なものなんだろうけれども、その果てにある物って、生物的な破滅・終焉になるんじゃないかなぁ。

それこそ「人間は賢くなれないってやつ」の話とおんなじで、「人間の持つ知性の本能的方向性は<社会>=反<自然>であって、教育や学習によって知性を強化すると、<自然>的な行動が抑圧される、みたいなイメージ」。

みんな幸せにな~れっ☆(ここで何らかの子供向けアニメにありがちな魔法ポーズが入る)」の話じゃないけど、そのうちにんげんはせーのでおしまいできそうかなぁ~

「現実」と「仮想」のレイヤー構造

急カーブにて話を戻しますが、§何が書きたかったのか、の「仮想」と「現実」の話はここからになります。仮想世界、仮想世界、と言うけれども、仮想世界の受益者かつプレーヤーである私たちは紛れもなく*1現実にある存在であって、であれば「仮想」と「現実」は切っても切れない存在になるわけだ。

これもまたレイヤー的構造であって、現実世界に付加する形で仮想世界が存在する。その橋渡しはVR機器が担っているし、その表現、操作、現実世界から仮想世界に干渉するUIは現実世界に依存し制限されちゃうんだよな。いくら仮想世界だからって、11次元を直接見ることはできない。

そういった意味で、Virtual Realityとは広い意味のAugmented Realityに内包されるし、「仮想世界だからこそ」出来る事、っていうのも難しい課題になるのかもしれない。バーチャルYouTuberもそうだけど、UIが現実世界に依存する以上、現実世界と遜色のない行動、あるいは付加価値のある行動ができたとしても、全く斬新な「仮想現実」を創り上げられるかどうか、っていうのは難しいね。

じゃあ、真の仮想現実っていうのは何時出来上がるのか?それはたぶん、現実世界を経由しないUIが完成しないと無理なのかなぁ。

まぁぼくはバーチャルサナトリウムで脳みそとして培養液に囲まれてるんですけどね。

コポ*2

*1:本当は紛れあるんだろうけれども話が複雑になるのでここでは紛れもなく、としておく

*2:リムコロ先生の名取さなの漫画が好きすぎるオタク