azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

無言の終わりを信じられなくて

終わる時は終わるのよ、何だろうが。…
アーティストであるとかクリエイターとかの、こういう活動っていうのは、(引退が)別にそんなに珍しいことじゃないんですよ。…
それに慣れろとは言いたくないし、…それに慣れさせない為に「そういうのってマジ辛いよね」っていうを時々ついてる。…
実は結構それって普遍的な事だけど、「本当に悲劇的な事が起きたな」っていう嘘を時々ついてる…

コーサカのオールナイトしないニッポン #16 0:48:48~より …部は中略

人はいつか死ぬし、形あるものはいつか壊れる。当たり前の事なんだけれども、当たり前の事を、あぁそうですね、って中々受け入れられないんだよな。自分はこうして生きていることが定常であって、そこに終わりがある、何時なのか、何処でなのか、分からないけれども終わりがある、そういう感覚ってあんまり無いんですよね。もしかしたらこの世界で私以外の全ての人間が死と隣り合わせであるという感覚を強く抱いて生きているのかもしれないけど。

こと「自分自身で決められる『死』」に限って言えば、そこにはたぶんそれを選ばなければならなかった、であるとか、それに至らなければならなかった、みたいな理由が、激しさの程度や強弱、前向きであれ後ろ向きであれ何かとしてあって。でも、その理由について外部から「すべて正しく」理解観測できることはないだろうし(別個体の人間の内部心理的な話なわけで)、その痛みをまた「すべて正しく」感じ取ることはできない。

そうである以上、その終着に対して何か口を挟んだり、あるいは恨み節を吐くことは正しくない、あるいは無責任な行いにしかならないというか。誰かが自らの終着を決しようとしている時に、その根本原因に向き合うことなく、その後の全てを保障できるわけでもないのに、感情あるいは自身の痛みからの逃避だけで否定するのはあまりにも残酷じゃないか、正しくない行いなんじゃないか、っていうやつ。

自分が受ける痛みは、自分だけの痛みとして受け取っておけばいい。痛みを転嫁しようとするのは、痛みの再生産という地獄にしかならないし、それを止めようと言うならばその痛みに根本から向き合う痛みがあって̪然るべしでしょう、というやつ。

終わりが訪れるということが珍しくは無くて、これから訪れるであろう終わりも沢山あって。前向きな理由が語られるそれもあれば、そうするしかなかったであろう終わり、何も語られない終わり。あるいは、何も語られなかったままの終わりが、それが終わりではないと信じてしまうのは、やっぱり性なんだな。