azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

写メは死語らしい

※画像文字起こし
美しい景色を見たときにカメラを手にしていれば、どのように写真で表現しようかと考える。もしカメラを持っていなければ、ただ「うゎー美しい」と歓声をあげておしまいになる。

スマホで簡単に写真が撮れるようになって、即ちカメラというものを多くの人が常に持ち歩くようになって、様々な場面でカメラを掲げるという行為が普遍的なものになっている。イベント等では撮影される場面のコントロール、写真を撮りたくなる場面の創出といった演出が、必ずと言っていいほど組み込まれている。

この写真を撮るという行為の普遍化は、カメラが手元にある、という状態が作り出したのではなく、撮影した写真を共有する相手先が常にある、という状態なのだと思う。

ガラケー時代では「写メ」の言葉通り、共有する相手がいるから写真を撮り、そしてメールで送信する、そこまでが文化の一つだったと思う。これがメールという媒体に限らず、SNSの発達によって共有相手が広範になり、あるいは壁打ち的に自分自身だけで完結する「送信」が生まれたことで、写真を撮るという場面も広がったんではないだろうか。

そうすると、常に「写真を撮り、共有する」という目的意識をもって様々な景色を目にすることになる。いわゆる映え探しか。で、この映えというのは大変難儀なものだ。

脳は都合がいいので、見た景色から都合よく「美しさ」のポイントを引き出し、それを拡大解釈して認知する輩なので、目で見て「美しい」景色ってのはよくある。では、それを写真に収めようとすると、脳が消していた邪魔な要素がフレームインしてくる。フォトスポット等であれば、計らいとして邪魔な要素は消してくれているだろうけど、自然相手ではそうはいかない。

すると当然、その美しさを「どのように写真で表現しようか」という思考を生まざるを得ない。この風景に美しさを感じさせる要素は何なのか。たとえば、花が一輪あれば美しいのか、背景に緑があるからこそ美しいのか、周囲の人工物は排除すべきなのか、などなど。美しさのストーリーを理解し、それを再構築するに過不足ない要素をフレーム内に組み込む。

その行いが、野暮だとするか、風景への理解と解像度を高めるものだとするか、人それぞれだろうけども、少なくともカメラを持っていない状態で美しい景色を見ても、「ただ「うゎー美しい」と歓声をあげておしまい」であるのは真か。その善悪は分からないけれども。