azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

俺のTwitterはコピーアンドペーストで構成される

これ自体は非常にポジティブな話なんだけれども、インターネットの時代は受信者が発信者になれる、そこの境界が曖昧であって、受信者であっても、ふとしたきっかけで創作的発信者になることができる。そこにあまり壁がないというか、連続的な線上に受信者と発信者がある。

すると、昨日まで受信者であったはずの人が、いきなり発信者として舞台上に立たされる事もあって、これはひとつインターネットドリームである以上に、インターネットの悪意の矢面に晒されるということでもあるんだよな。

ひどいインターネッツがあるもので、他人の権利を蔑ろにすること自体が発信の手法としてかなり成立しているので、受信者として他人の権利云々を意識する瞬間って希少な空間になっていて。そういう空間から明日、権利と契約と信義の発信者で居られるかというと非常に困難だと思う。結果、ものすごく薄氷の、どちらともつかない空気感のまま発信が行われる場面っていうのは容易に想像ができる。

場面と言ったけれども、そういう空気感の強弱は基本的に狭い所属のカルチャーというか、界隈の文脈によって制御されるから、あらゆる意味場面において、ないし法律的な観点から正しい権利認識が為されているとは限らない。それこそ権利を無視してスクラップアンドビルドするとか、そういう「作風」を是とするインターネッツもあるわけで。

だけれども、基本的にはインターネットで行われる批判は常に正義的な立場で始まるので、受信者側の線引によって、権利認識を正しく持つべきと断じられた発信に対しては、常に正義的な断罪を加える構造になっているというか。発信された以上、そのものが持つ文脈を無視した発信物として独り歩きすることを否めない以上、常にクリーンな文脈にあるものとして認識されて、批評される。

文脈という所属が不法行為の免罪符になるわけでは決してないのだけれども、批判を加えるそのこと自体が目的となっている層があるように思える潮流で、そういう発信物について文脈を一切合切無視した一方的批判が叩き付けられているのは、どうも見るに堪えないなと感じてしまう。

悪意のインターネッツに向かないそこの君!昨今のSNSにはミュートやブロックという機能があるぜ!