azusatokohaの日記

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人間は神様だった

神様といえば、どんな存在が思い浮かぶだろう。世界を作り上げた創造神。特定の分野(たとえば農耕とか)を司る存在。目には見えない、けれども存在するもの。
いろいろな神様が考えられるけれども、やっぱり、神様といえば、「全知全能」これがしっくりくる。全知全能の神。全知全能だなんて、神の枕詞みたいなものなんじゃないだろうか。
この世のすべてを知り、この世のすべてを司る存在。それが神様、全知全能の神様の正体。
世界の中心にして、世界のどこにでも存在する。人間からは絶対的に不可侵の位置に居ながら、人間はあたかも神様が何かを叶えてくれる、あるいは自身に何らかの試練を与えているかのように感じる。とてもふしぎな存在。

とはいえ、世界の中心に存在する、ということは、さほどおかしな事柄ではないかもしれない。
私たち人間は、私たち自身に付いている感覚器で、私たちの周りの情報を得ている。脳に入ってくるすべての情報は、自分自身を中心とする周囲を世界として知覚した結果になる。
とうぜん、人間の感覚は自分を中心に据えたものになるし、自分の知っている周囲の情報を、世界と言い換えるなら、人間は世界の中心から世界を知覚していることになる。
世界の中心からいろいろなものを知覚したとき、見えないものがもちろん出てくる。壁の向こうに何があるのか、視覚的に感じ取ることはできない。過去の経験、他者からの情報などを使って推測することはできるかもしれないけれど、そういった前情報なしに正確な推測はできそうにない。
むしろ、壁が見えたとき、その向こうには何もない、その壁こそが「世界の端っこ」だと考えてしまいがちでさえある。その向こうに何があるのか、想像力を働かせる余地すらなく、自身にとっての世界はそこで終わる。

「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」とは、有名な西尾維新によるライトノベルシリーズ「化物語」に登場するセリフらしいけれども、人間はしばしば自分の知識が世界のすべてに及んでいる、と錯覚してしまいがちじゃないだろうか。
自分の知覚できる世界について、よく知っているからといって、それは世界の全てを知っているわけではない。自分の知らない事は必ずどこかに隠れている。
自分の見えているものが世界の全てだと思い、隅々まで見えてしまったときに、人間は、全知全能の神様になってしまう。
世界の端っこのように見える壁にも、よく探せば未知の領域に通じる扉が付いているもの、その扉を探す努力、その扉を開けてみる好奇心を忘れないで生きていくことができれば、自分の世界はより遠くまで見通せるものになるんじゃないだろうか。
そんな考えになれるとき、自分の中から神様を追い出せるときは、いつになるんだろう。