azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

ネガティブなコストを払わなければならないやつ

ランニングコストっていうのはネガティブなコストとして捉えられがちで、そこには「今あるモノや機能を保つ」という目的で「払わなければならない」からなんだろうなぁ、とおもう。基本的にそういうコストは嫌われるし、最近のシェアリングエコノミーとかリースを利用する目的にはそういうコストを平滑化する+突発的なコストを回避することにありそうで。

それでも、ものごとを存在させ続けなくてはならない時、ネガティブな、決して喜んで払われるわけではないであろう、運用コストが乗っかってきてしまう。Going Concern, 何かを継続して存在させるということは、暗黙の了解でありながら、消耗を強いる。

で(ここでキャラクター論のオタクになる)、そういう消耗は個人だとかキャラクターにも乗ってくるもので、もし自分に対して何らかのキャラクターを標榜し、定義するのであれば、それを持続させるためにはやっぱり運用的なコストを払わなければならない。維持するためだけの、無産コスト。

そういう人格ポリシー、なんというか「自分はこういう存在を目指したい」みたいなものは、常時意識をしておかなければならないし、素の状態(根源人格?)で人格ポリシーに反するような行いをしかけた時に、咎める教師人格が必要になる。ポリシー違反を監視・是正する人格というコスト。

人格とかそういう部分に限らず、たとえばTwitterアカウントを分けて別の話題ごとのアカウントにしよう、という運用ポリシーを定めた時に、たぶんそれは相当のコストをもって運用していかないと、破綻する。領域侵犯というか、2つの運用目的が混濁して、結局片方でいいじゃん、っていう。

同時に何かを始めるコストって、ものによって運用コストよりもだいぶ低くて、軽率に始める事ができてしまう。Twitterアカウントの2つ目を作るとかも、けっこう簡単なんですよね。運用ポリシーを決める事も、けっこう簡単。でも、それを運用していくコストを払うのは難しい。単純に面倒くさいし、要らないコストが増えていってしまう。

なんというか、そういうコストが増大していったときに、全てを捨てたいという発作がありがち。いわゆる人間関係リセット癖みたいなやつ。人間関係を築いて、そことのやりとりの窓口として人格を置いた時、その運用コストが、それを運用することによって得られるメリットを(瞬時であれ積算であれ)超過し、あるいは気まぐれな棚卸しが始まって、発作が出る。

運用とはコストである。同時に、運用をしないと何かを保つことが出来ない。なんかいい感じに消耗が気にならない対価があればいいんですけど。

あるいはふつうの人ってそういう構造化とか人格ポリシーの規定とか要らないんですか…?