azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

作品の評価 自分の評価

生きていると、ものを作ることがある。
ものを作ると、評価されることがある。
作ったものを評価されるとき、それは自分自身が評価されている、ということなのか?

人間、たぶん誰しも、他人に見せたくない一面というものがあると思う。ダメな性格や生活、自分自身で認めたくない思考、そんなものが一切ない人間というのは、少なくとも今のぼくでは想像できない。隠したい自分が無い、全てさらけ出せる、噓偽りなくそれを言える人間。

さて、(ぼくにとっては)ごく一般的な、弱みがある人が、何かを作った。おそらくそれを作るために努力して、自分でも良いものができたと思って、自信をもって世に送り出した。そういうものが評価されるとき、作者はその評価を自分へのものと思えるのか。

もちろん、その評価は自分のものに対する評価、あるいは称賛とか、そういう肯定として捉えて良いと思う。それは他でもない自分の、努力やセンスが生み出したものへの評価なのだから。

ただし、作者自身は、それを自分自身が、本当の自分自身が作り出したものではないと思っていたら、結果は違うのかもしれない。


インターネット上など、ハンドルネーム(単純に別名・変名でも良いんだけど)を使うような文化において、そのハンドルネームを自分自身の投影ではなく、ひとつの人格として捉えていたら。「本当の自分自身」ではなく、「自分の中から他人に見せられる部分だけを切り分けて見せている人格」をハンドルネーム上に置いている状態であったら。その肯定的な評価を受け入れられない可能性が十分にあると思う。

作品を発表したのは、ハンドルネームの持つ人格である。そう思ってしまうと、いくら正当な評価であったって、他人に見せられる自分が評価されているだけで、本当の自分自身の評価には繋がらないと思ってしまう。そうなると、いくら良い作品を作っていても、自分の中での自己評価には繋がらないまま。

作品への評価は、作品を作った人格という、見せられない部分をひた隠した、自分とは違うものへの評価である、という意識。果ては、その人格がむしろ自分自身への評価(そんな評価を自分は認めていないわけだから0と言ってもいい評価値だ)との格差を浮き彫りにしてくる、そして自分の性格の否定を強いられているような気分になってくる…。そんな悪循環さえ生みかねない意識なのかもしれない。


インターネット上のクリエイターさん(絵を描く人とか、音楽を作る人とか、動画を作る人とか、本当にいろいろだ)たちを見ていると、なんだかそんな自己否定的なスパイラルがあるんじゃないか、という気がしてならない。自分に対する評価を、素直に受け取れない構造。不幸なことだけど、ありえる可能性だと思う。

注釈みたいなのの一覧
今回、評価という語を「肯定的な評価」の意に限って黙示的に使ってます
ハンドルネームを用いない場合でもこういう現象はあるかもだけど、ハンドルネーム=別名を使うことが、この現象を加速させるかもって思ってハンドルネーム文化に限定して書いてます