azusatokohaの日記

人生ラバーダッキング会場

新写真論/Personalized

気合を入れて撮る写真と、気合を入れずに撮る写真とがある。写真だけを目的に、わざわざ出掛けていった時に撮る写真は前者だし、今日のお昼ごはんを何気なしに撮る写真は後者だ。前者は一眼カメラで撮って、後者はスマホで撮る。

ぼくがこのような写真の格差を意図的に付けるのは、写真を撮る目的の違いだと思っている。一眼カメラで写真を撮る時、求めるのは理想の世界で、スマホで撮る写真は今そこにある世界。そういう使い分けをしている、気がする。

そして、自撮りはしない。あくまでも、世界を撮っている。世界を見ている自分は、世界の中心に0次元の点として存在していて、世界に写り込むのは不自然。自撮りを必要としないのは、自分がそこに居ることを自分で分かっていて、ある種の規則としているから、自分の存在の有無を区別しないで済むのかもしれない。

新写真論という本を読んだ。SNS上に大量に存在していて、なにか大きなパラダイムシフトを迎えている写真という存在を、氾濫する存在という前提で捉え直して、何が変わり、何のために在るようになったのかを論じる、というような本だった。現在の写真というものを考える時、無視できないスマートフォンの存在を見つめ直す本だった。

あらためて、ぼくがカメラを持って撮る写真というものを見つめた時、そういう結論に至った。人間が作って、人間が消えた、直線的、成型的で、生気のない世界。そういうものを、自分の好き勝手に作り出すために、カメラを持っている。

そういう意味で、一眼カメラを持って撮る写真は、演出ありき、編集ありき、嘘ありきになっている。世界から自分の見たい部分だけを好き勝手に切り取って、好き勝手な色を載せて。

スマートフォンで撮る時は、そこにある、自分が居て、他人が居る、そんな単なる世界を切り取る時だ。それはその世界に自分が生きている証で、あるいはその世界で自分が気付いた何かで、たしかに自分は存在していて、他人も存在している。そこを編集でカットするつもりはないし、切り取ろうと思っているわけではない。ライフログであって、SNS写真であって、自分が居ないだけで自撮りになる。

写真の意味と、写真を作るツールが結びついて、写真のデータそれ以上に、そこにメタ情報が付加されている。どちらも同じ自分が撮っているはずなのに、かたや自分が居てはいけない世界を撮り、あるいは自分が居る証の写真を撮る。

そこに疑問を差し挟まないのは、やはりスマートフォンネイティブであり、知らぬ間に「自撮り」ネイティブだったのかもしれない。 スマートフォン時代の、新写真時代に生きる者として。